法務ログ/Beyond happy paradise

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裁判官の判断と「結論の妥当性」

民事訴訟において、裁判所(裁判官)は、原告が訴訟物として主張する一定の権利又は法律関係の存否について判断する。この判断は、実体法規に定められた要件に該当する具体的事実が存在するかどうかによって行う。*1

このように、建前として、裁判所は、①「法規(規範)」を確定した上で、②それに該当する「具体的事実」が存在するかどうかによって、判断する。

もっとも、現実の判断がこのように、①→②というステップを踏んでなされているかは別問題であり、実際には「結論が直感的に先きに出る」実務家が多いと昔から指摘されている*2

このような傾向は、最近でも変わっていないようであり、平成期に最高裁判事を務めた複数の法曹が、裁判官の一般的な傾向として同様の内容を肯定している。 

例えば、平成14年から最高裁判事を務めた藤田宙靖は「裁判官にとって、まず何よりも、目の前にある当事者間の現実の争いについて、そのいずれかに軍配を挙げることこそが基本的な課題なのであって、しかもそれを、できるだけ速やかに行わなければならない。そしてその場合の決定基準は、いわば、一重に『適正な紛争解決』であるかどうかなのである」*3と指摘しており、平成21年から最高裁判事を務めた千葉勝美は「裁判官は、法理がまずあるのではなく、事実認定とそれを基にした最も適正な事案の解決は何かをまず直感的に(リーガルマインドにより)考え、次にそれを説明し得る法理や理論、解釈を採ることができるかを検証することにより裁判を行っている」*4と指摘している*5*6

 

このような「結論の妥当性」が裁判官の判断に(判決文に直接的に表れるかは別として*7)大きな影響を与えていることを否定する実務家は少ないと思われる(ただし、全ての裁判官がこのような判断手法を採用するわけではない。例えば、園部逸夫は、学者出身で昭和49年から最高裁判事を務めた団藤重光は「自分の理論もきちっとある人だから。その理論に外れたものは駄目だ」とする「理論派裁判官」であり、裁判官出身(ただし、司法行政等の経験が長かった。)で昭和53年から最高裁判事を務めた中村治朗もこれに近かったと指摘する(御厨貴園部逸夫オーラルヒストリー』176ページ及び190ページの園部発言)*8

 

さて、このように結論の妥当性が裁判結果に強く影響を及ぼすとすれば、訴訟当事者(及びその代理人)としては、単に要件事実に該当する事実が存在すること(又は存在しないこと)を主張立証するだけではなく、紛争の実体を裁判官に理解してもらい、かかる紛争の実体からしても、「自らが勝訴に値すること」を主張立証することが重要になる。かかる主張立証を行うには、単に要件事実を理解するのみならず、「裁判官の良識」*9とはどのようなものなのかということを、常にアップデートして理解しておく必要がある*10

司法研修所での教育の重点が、(理論重視の)要件事実から事実認定へと移行したことも、「紛争の実体を(判断権者として)理解する能力」と「(代理人として)示す能力」を養うためではないかと思われるが、この点の意識が法曹実務家には特に重要ではないか。

*1:司法研修所『新問題研究 要件事実』5ページ

*2:末弘厳太郎『嘘の効用(上)』11ページ

*3:藤田宙靖最高裁回想録』136ページ

*4:千葉勝美『憲法判例と裁判官の視線』18ページ

*5:これらほど直接的な表現ではないが、平成元年から最高裁判事を務めた園部逸夫は「現場でずっと事実審をやってきた人(引用注:裁判官を意味する。)は、まず理論ありきではないですから。まず、物があるわけです。物、現場がある」と述べている(御厨貴園部逸夫オーラルヒストリー』176ページにおける園部発言)。

*6:法哲学者の大屋雄裕は、裁判結果の予測が困難であることを指摘する際に、裁判所は裁判の「前提」となる既存の実定法及び法解釈「を覆すウルトラCを使うことができます」とした上で、その例として実定法を違憲無効とする場合の他に、条理が裁判規範となり得ることを指摘している(大屋雄裕『裁判の原点』145-147ページ)。

*7:園部逸夫の「判決文に表れた事実というのは、適宜、すでにして、ある程度作られた部分がありますね。事実と言っても、生の事実は、そこに来ないわけですから。物証とか人証とか現場検証とか、そういうものが記録に残ってくるだけであって(中略)裁判官は自ら濾過していますから。だから、そこにすり込まれた印象というのは、判決に表れてなくても、自然に心証形成に影響するわけですね。」(御厨貴園部逸夫オーラルヒストリー』177ページにおける園部発言)という指摘参照。

*8:中村は、著書において、「わたしたち(注:事件を判断する裁判官の意味)は何よりもまず、その事件の妥当な解決は何かを考える」とした上で、かかる妥当な結論を踏まえて「法規命題そのものの再検討」がなされ、これが「法の創造」につながると述べている(中村治朗『裁判の客観性をめぐって』121-122ページ)。同著の表現は一義的でないが、その前後の記載も踏まえると、ここでいう「法の創造」は明確に事後的な検証ができる形で示される必要があるという考えと思われ、その意味で、やはり「理論派」としての立場が強い印象を受ける。

*9:藤田による表現

*10:ただし、この「自らが勝訴に値すること」の意味をよく考えないと、(本人訴訟等で散見される)「ただの余事記載」となって、かえって逆効果になるといえる。その意味で、このような主張の仕方は要件事実論に基づく議論以上に専門性が求められる内容ともいえるだろう。